プロフィール

オンラインカウンセリング凸凹家族へようこそ

はじめまして。発達障害児の子育て専門カウンセラーのへらいえつこです。

へらいは漢字だと「戸来」と書きます。

あなたにとって、新しい世界へのがすぐそこまでていますよ、という意味を込めました。 

このサイトへ勇気をも持って来てくださってありがとうございます。

子育ては正解もなければ、終わりもない、毎日毎日日々挑戦、修行の毎日です。

そのうえお子さんに発達障害があったら…、毎日のように起こる癇癪、よくわからない謎のこだわり、突然の逃走、こちらにはまるで関心がない素振り等々、体力的にも精神的にも疲れ果てて当然です。

本当に大変な日々を過ごされてきたことと思います。

日々の子育てて、こんなお悩みを抱えているのではないですか?

当てはまるものが多ければ多いほど、ストレス度が高いといえます。

もちろん1つしか当てはまらないという方でも、それが本当に深刻で毎日がつらいと感じる方もいらっしゃるでしょう。

そんなストレスや、心のつらさから解放されたいと思いませんか?

カウンセラーへらいが、あなたのお悩み解決のお力添えをいたします。

カウンセラーとご相談者様との相性は、カウンセリングを進めるうえでとても重要です。

まずは、私へらいえつこのプロフィールを紹介させていただきます。

私は今も子育て真っ最中、現役の一児の母親です。

私の息子には発達障害(自閉スペクトラム症)があります。

実は先ほど確認していただいたチェック項目、私は全部当てはまっていました

今は全然そんなことないんですけどね。なぜこんなにたくさんあった悩みを克服することができたのか。

それはズバリ! 1.信頼できる先生 2.ペアレントトレーニング 3.心理療法 に出会ったからなんです!

この3つの出会いによって、私の悩みは次のように変わりました。

この体験を同じような悩みを持っている方にも伝えたい!そう思うようになりました。

私は今、

大人も子どもも自分を好きになり、自分の内なる力を大いに発揮し、笑顔で子育てができる世界

を目指したいと思っています。

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私の詳しいプロフィールは、以下の通りです。長くなりますが、より私のことを知ってみたいと感じていただけた方は、是非お読みください。


女の子

 私は、1976年に生まれました。その時父は50歳、母は44歳。今では珍しくもありませんが、当時は超高齢出産で1か月も前から母は入院したそうです。

 私の遊び相手はもっぱら3歳年上の2番目の姉でした。二人で階段から飛び降りたり、テーブルの上で歌って踊ったり。ケンカもたくさんしました。

 父は酒癖が悪く、酔うと母を怒鳴りつけていました。お酒を飲んだ時の父は大嫌いでした。

 酔っていなくてもケンカのたびに父に怒られ、姉と二人で暗い部屋に閉じ込められました。悪いことをすればげんこつも飛んできました。

 昭和では当たり前のことでしたので、”また怒られちゃった”くらいにしか思っていませんでした。

 その頃の私は、大きくなったらピンクレディーになるものだと思っていました。なりたいではなく、自然になるものだと本気で思っていました

 小学2年のとき転校しました。そこから小・中・高と姉と同じ学校に通うことになるのですが、常に姉の友達、先生、保護者から姉と比較されていると感じていました。

 姉は学業優秀な人でしたが、私は忘れ物が多かったり、失くし物が多かったり、残念に思われていたと思います。

 父は勉強にうるさく、毎日のように勉強勉強と言われました。

 「お姉ちゃんは、ちゃんとやっているぞ」も、毎日のように言われました。

 そんな私を姉もバカにしていました。姉が思春期になると、私への当たりが強くなってきました。

 よく言われていた言葉は「バカ」「デブ」「はぁ?」「あんたが悪いんでしょ」「私間違ってないよね」「信じられない」など。

 この頃になると、父に怒られないよう、姉の逆鱗に触れないよう、小学生時代の私は家族の前でちびまる子のように「ヘイヘイ!ぷっぷくぷ~」などとおどけていました。

 中学生になると、父・姉とはほとんど話さなくなりました。口を開くと怒られるからです。

落ち込む女子

 姉と同じ高校に入ったものの、私にはレベルが高すぎました。全く勉強についていくことができませんでした。

 クラスメイトは優秀な人ばかり、バカな私はその人たちと関わってはいけない、バカをうつしてはいけないと思っていました。

 そして、変に口をきいて自分がとんでもなくバカだということが知られることも恐れていました。

 通学途中で何度も体調が悪くなり家へ引き返していました。

 しかし、学校は行くべきもの、不登校なんてとんでもないという父でしたから、重い足取りで学校へ向かう日々でした。

 大学の志望校は、どこだったら父から許可をもらえるのかで決めました。

 しかし、その志望校には点数が足りず受けることすらできませんでした。

 担任の先生が勧めてくれた大学はとても父が満足するようなランクの学校ではありませんでしたが、浪人するよりはましとその大学へ行くことになりました。

 イヤイヤ入った大学でしたが、親元を離れたことで自由を楽しんでいました。

 同じ年の子が普通にしていたことが私にとっては初めてのことばかりで、世の中の同じ年の子はこんなにも自由でいられたのかと驚きました。

 しかし、自由は長く続きません。

 大学卒業を前に、私は実家へ連れ戻されました。父が私の交友関係を知り激怒したからです。

 犯罪を犯すような人たちではありませんでしたが、タバコを吸う・夜の繁華街で遊び歩く・夜のお店で働いているというだけで、父の中ではアウトでした。

 実家に戻ってからは、父とは顔を合わせたくないので、昼夜逆転の生活をしていました。

 そんな生活でしたから、当然就職もしていません。

 大学で教員免許は取りましたが、先生になる気は一切なく先の見通しは何もありませんでした。

怒る人

 何もしないというわけにもいかないと思い、私は専門学校で学びなおしをしようと思いました。

「大学まで出ておいて、専門学校に戻るバカがいるか!」

 激しく怒られました。父の中で専門学校は、大学に行くレベルではない人が行くところという認識だったのです。

 その後、バイトや就職の面接を受けようとするときにも、逐一父に確認し、そのたびにダメ出しをされました。

 その頃私は車で事故を起こしたり、セールスを断れず高額商品を買わされそうになったり、すべてがうまくいきませんでした。そんな私に父は

「お前が自分で考えることは、いつも失敗する。もう何もするな!」

 父が私に突き付けた決定的な一言でした。この言葉で、私はもう何もできなくなりました。

 もうお父さんの言うことだけきけばいいんでしょ、はいはいわかりましたよ。当時はこんな気分でした。

 私が30歳の時、父が他界しました。

 お葬式では涙が出ましたが、それは父と別れる寂しさや悲しさではありませんでした。

 父の監視から逃れられるという嬉しさの涙でもありません。

 これからどうやって暮らしていけばいいのだろう、何をするにも父の許可をもらっていたのに、今から誰に許可をもらえばいいの?お金は?

 そんなことを考え、先の見えないこれからの暮らしへの不安と恐怖からの涙でした。

 母との二人暮らしになりました。

 母は私を父のように監視するようなことはなかったので、いくらでも自立する機会はありました。

 しかし私はしませんでした。今更親から離れて暮らすなんて、どうしていいかわからなかったのです。

 昼夜逆転の生活をしつつも、一応仕事はしていました。塾の講師や家庭教師です。

 家庭教師を始めて10年ほど経ったある時、1件の依頼がありました。

 高校受験を控えた女の子で、親御さんから「厳しく」指導をとのことでした。

 実際の指導で私がどうしたか。

 受験にやる気が感じられないその子に

「そんな腑抜けた気持ちで、受かると思ってんの?甘いんだよ!点数見なさい!」

「それで勉強したと思ってんの?点数上がってないじゃん!上がんなかったらしてないのと同じ!」

 出てきた言葉は、私が父や姉から受けたような言葉。

 その子はメンタル不調を訴え、私は指導を外されました。

 反省はありませんでした。そっちが厳しくしろって言ったくせにと腹が立ちました

 私はその後家庭教師を辞めました。時代に合わなくなったと感じたからです。

 これくらいでへこたれるような子が増えるんじゃやってらんないと思ったのです。

殴る母

 恋愛も相手に依存的になってしまうため、うまくはいきませんでした。

 そんな私も30代半ばで結婚しました。

 相手の方は20代前半から知り合いで、恋心を抱くということはなかったのですが、一緒に暮らすにはちょうどよいと思える人でした。

 そして約2年の不妊治療の末、私は40歳で第1子を出産しました。

 かわいらしい赤ちゃんとの穏やかな日々が始まるのだ、そんな幻想を抱いていました。

 現実はそうはいきません。

 初めてなのでその時は、育児ってこんなものかと思っていましたが、後から思うと息子は少し育てにくい子でした。

 このような息子に、私はいつもなんで?どうして?とイライラを募らせていました。

 泣き止まない息子に

「もう!いい加減して!泣いたって何の解決にもならん!どうしたいか言え!」

 と怒鳴ったり、

 思い通りに動いてくれない息子の頭を平手で殴ったり

 甘えてくる息子が疎ましくなり、「あっち行け!」と突飛ばしたり

虐待です。

 イライラしている私を気遣ってくれる義父母も鬱陶しく感じました。

 なんかあったら相談してと言われても、「うっせえわ、しゃしゃり出るなばばあが!」と心の中で悪態をついてました。

 表面では笑顔で「ありがとうございます」と言うんですけどね。

 1歳を過ぎ息子は保育園に入園しました。

 保育園に連れていくと、息子は毎朝吐きそうになるほど号泣。半年続きました。

 こんなに泣くなんて、保育園に入れたのは間違いだったかと思いましたが、保育士さんの

「最初はみんなこんなもんだから、早く慣れる子も遅い子もいるから大丈夫

という言葉を信じました。現に1年も経つと息子は園に慣れたように見えました。

 2歳児クラスから3歳児クラスに上がるとき、保育士さんに

「息子さんはまだ言葉が出ないのね」

と言われました。びっくりしました。

 1歳半健診で言葉の要観察と言われましたが、その頃にはもう大人と普通に会話できるくらい言葉は出ていました。

 どうやら保育園では、クラスの子とはもちろん先生とも一言も交わさず、一日中黙りこくっているようでした。

 そして他の保育士さんからは

「息子さん、他の子ができてることができてないことが多いです」

と言われました。これもすごくショックでした。

 大人の言うこともしっかり理解できているし、元気で活発な子だとばかり思っていたのですから。

 みんなに同じ指示を出しても、息子だけ動かないことが何度もあったそうです。

 折り紙とのりを持って行って、と言われてものりしか持っていかないとか。

 家では比較する子どもがいないので気にならなかったのですが、どうやら息子は保育園ではちょっと困った子扱いになっているようでした。

勉強させる母

 3歳児健診で園での様子を保健師さんに話すと、言われるがまま発達検査を受けることになりました。

 夫には「そんなこと健診で言うから」と言われました。私のせいだと責められてる気がしました。

 3歳の時の検査でははっきりとした診断名が付きませんでした。医師からは

「発達に凸凹があるね」 と言われました。

 凸凹は治ることはない、そう説明を受けました。

 他のお母さんや会社の同僚には「小さい時はそんなもんだよ」「うちの子も同じだよ」「大きくなったらよくなるんじゃない」「最近流行りだもんね」と言われました。

 義母には「小学校に行ったらそんなのたくさんいるから」「もっと激しいのいくらでもいる」と言われました。

 そういわれても、私の心は全く晴れず、逆に

「何にも知らないくせに」

「同じじゃねえよ、検査してないだろ」

「流行りってなんだよ、好きでなってるんじゃねえよ」

「たくさんいるからってなんだよ、他の子なんてどうでもいいわ」

とモヤモヤした気持ちでいっぱいでした。

 その反面、診断名がつかないということは、もう少し大きくなったら普通になるんじゃないか

 そんな風に思い、検査結果で弱かったところのトレーニング法をネットで調べたり、書店でワークを買ってはやらせたりしました。

 やろうしてもやれないことを無理にやらされる

 その辛さを私は学生時代に嫌というほど味わっていたはずなのに、息子に同じことを強いていました。

 教育ママならぬ、療育ママでした。

 4歳になり、ASD(自閉スペクトラム症)の診断が下りたときは、ああやっぱりなあという思いと、これからもこんな生活が続くのかと先に希望が持てませんでした。

 4歳から個別療育からグループ療育へ変わりました。

 そこへ行くと、一言でいうと息子はおりこうさんでした。

 始まりの準備も一人でできる。
 先生の指示が聞けている。
 お友達とのやりとりもできる。
 苦手なことも癇癪を起こさずに取り組めている。

 でも園や家での様子はさほど変わらない。これはどうしてなのだろう?不思議でした。

 息子が療育でおりこうさんな時、家とは何が違うのか観察してみました。そこで気が付いたことは、息子は何も変わっていないということでした。

 違うのは、先生の息子へ接し方や指示の出し方でした。

 先生の息子への指示出しは、だらだら長い事は言わず、1指示で1つのことだけ。

 順番に何かするときは、図示して忘れてもすぐに見ればわかるように。

 何かできない事があっても怒らずに、これはどうかな?これならできるかな?と息子ができるところまでレベルを下げてくれます

 そしてできたところで思い切りほめていました。

 大人の接し方ひとつで子どもがこんなにも変わるんだ! 目からうろこが何枚も何枚も剥がれ落ちた気分でした。

 そして、先生は私の子育てにもダメだしすることなく、「そうだよね、がんばったね」とやさしく包んでくれました。

 どうしていいかわからないときは、先生に相談すると息子の特性を考えながら、適切な方法を一緒に考えてくれました。

 私も非難されることなく受け入れてもらえ、なんとも心地よい初めての感覚を味わいました。

 この先生との出会いで、子育ての道筋が見えた気がしました。

 道筋は見えた、しかし家にいると息子のほめるところがわからず、相変わらずイライラしながら怒鳴り散らす日々が続いていました。

 こんなんじゃダメだと自分をダメ出しし、先生のようにうまくできない自分を責めました

 子どもの療育は検索したら山のように出てきます。しかし、親に対しては相談しか見つけられませんでした。

 相談はいいから、やり方を知りたいのです。

 そこで見つけたのは「ペアレントトレーニング」の文字でした。

 親がの適切な接し方をトレーニングで獲得することで、子どもの問題行動を減らし良い行動を増やすというものでした。

 私は早速このペアトレを受けようと思いました。

 情報によると県や市の福祉センターや療育センター、発達支援事業所、大学の心理センターなどで受けられるとのことでした。

 しかし、私の住んでいる地域でペアトレを行っている機関はありませんでした。

 困った私は、誰もやってくれないなら自分でやるしかない。そう思い、勉強を始めました。

 勉強をしてみると、今まで私がどれだけ過酷なことを息子に強いてきたのかということに気づきました。

 目の前の息子を全然見ておらず、理想の息子を勝手に作り上げ、その通りにならない息子に怒りをぶつけていただけでした。

 勉強を続ける中で、同じようにペアトレをやってみたいと思っている人たちに出会うことができ、実際にペアトレを受けてみる機会も得られました。

 すると、家や保育園での息子にも変化が現れました。

 これこそ私の求めていたものなんじゃないか、そう思ったのですが…

 一緒に参加しているお母さんたちの話を聞くと、

他の子はそんなことができるんだ、うちの子はできない
他のお母さんたちは色々工夫してやっているのに、私はそんなことできなかったなど

息子も自分自身も誰かと比較し、モヤモヤが消えることはありませんでした。

 ペアトレは素晴らしいもののはずなのに、何かが足りない。それが何なのか。

 その時はわかりませんでした。

顔に落書きして怒る子ども

 私のモヤモヤの正体はなんだろう、そう考えていた時に出会ったのが心理療法でした。

 心理療法を学んでいる中で、私は自分の中に常に怒りでいっぱいの小さな子どもがいることに気が付きました。

 その子はいつも「なんでわかってくれないんだ」「そんなことしたくない!」と言って、赤いサインペンで顔中をぐちゃぐちゃに塗りつぶしているのです。

 もう何十年もたっているのに、父や姉に抑圧されている自分がいることに気づきました。

 ああ、私ってAC(アダルトチルドレン)だったのか、今までのイライラ、怒り、自分への自信のなさはここだったかと腑に落ちました。

 その小さな子は、ただただ甘えたかったのです。優しく抱きしめてほしかったのです。

 あれができたからとか、これが上手だったからとか、それだけじゃなく、ただそこにいるだけ、それだけでも「愛してるよ」と言ってほしかったのです。

 父や姉の前でおどけて、ふざけていたのは、ただのひょうきん者ではなく、まる子の仮面をかぶっていただけと気づいてほしかったのです。

 このタイミングで、たまたま私は父の幼少期の話を知ることとなりました。

 父もまた、親からの愛情に飢えた人でした。

 父は幼い頃に実母を鉄道事故で亡くしていました。父はその事故の原因は自分にあると語っていたそうです。

 自分が線路に入って遊んでいたところを助けようとして事故に遭ったと。

 その後、継母に育てられたけれど、弟2人が生まれ一度も甘えられなかったそうです。

 実父は国鉄で働く鉄道員だったそうですが、実母と同じく仕事中に鉄道事故で亡くなったそうです。父が高等小学校(現在の中学校)に入ったばかりの頃でした。

 その年で父は家長となり、血のつながらない継母と弟2人を守らなければならなくなりました。時代は戦争へと向かっていっている最中でした。 

 私とは比べ物にならないほどの孤独や責任感の重さを父は背負ってきたのだと思います。

 やりたいことなんて何もできなかった少年時代だったでしょう。

 きっと、父の中にも愛してほしくて、自分のやりたいことができなくて泣いている子どもがいたんじゃないかと思えました。

 父だって怒りたくて怒っていたわけじゃなかったのかもしれない、愛することの表現を知らなかっただけなのかもしれない、そう思えたとき私の怒りでカチカチだった心の奥が、すっと溶けたような感覚を覚えました。

 心理療法に出会わなければ、父を許すことも、自分の中の怒りと向き合うこともできなかったでしょう。

 ペアトレをする前に、子どもを産む前に、学生時代にこのことに気づけていたら、私の人生もう少し楽になっていたに違いありません。

笑顔の親子

 ここにたどり着くまで、約40年も私は自分の中の怒りに蓋をして、ごまかしながらずっと生きてきてしまいました。

 でも、その一見無駄だったと思えるこれまでの人生、すべてが今ようやくつながったような気持ちになっています。

 思うように動けなかった若い頃、怒りをまき散らしていた家庭教師時代や最初の子育て、息子に発達障害があったこと、それらがなければ私は信頼できる人にも、ペアトレにも、心理療法にも出会うことはなかったでしょう。

 この出会いは必然です。このことを無駄にしてはいけない。

 私は私に何ができるのが、何をしたいのか、それをしたら何がどう変わるのか、真剣に考えました。そしてたどり着いた答えが、

「大人も子どもも自分を好きと思え、自分の内なる力を大いに発揮し、笑顔で子育てができる世界」を目指す

 それが私の使命だと思っています。

 これができたら、もっと楽ちんで平和な世界が待っていると思いませんか?

 この使命を果たすため、私は「親子のためのペアトレコース」を展開することにしました。

 発達障害のあるお子さんを育てる親御さん向けのコースですが、グレーゾーンはもちろん定型発達のお子さんを育てている親御さんにも十分対応できるプログラムです。

 

 ご興味のある方は、まずはお試しカウンセリングをお申し込みください。

 私の長い長いプロフィールをここまで読んでいただきありがとうございます。

 この出会いが、あなたにとってかけがえのないものとなりますように。

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